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ベトナムの「赤ひげ眼科医」 服部匡志(ただし)

 困った人を見ると力満ち心が燃える

 ベトナムで無償の医療活動を続けて10年。服部匡志(ただし)氏は現在、開業せずどこの大学にも病院にも属さないフリーの眼科医だ。一ヶ月の半分は、東北から九州まで約10ケ所の病院を渡り歩き、診察と手術を行う毎日だ。その報酬で家族を養い、ベトナムでの無償医療ボランティアの費用を稼ぎ出している。残りの半分でベトナムの首都ハノイと地方に赴き、貧しい人たちへの無償の医療活動を続けている。

 自宅で丸一日、過ごせるのは年に一日から二日ほどしかない。ベトナムで、こうした渡り鳥医療ボランティアを続ける「赤ひげ眼科医」がいた。

赤点だらけの高校時代

 服部氏は別に裕福な家庭に育ったわけでもないし、親が医者であったわけでもなかった。高校時代の勉強も数学、物理は赤点ばかりだった。それで、高校の先生に医学部志向だというと、「こんな成績で行けるわけがない」と笑われた。ただ「一生懸命、死ぬ気でやったら2年ぐらいで行けるようになる」と助け船を出してくれた。

 浪人一年目は一日14時間机に向かっていた。それで2年ぐらい頑張ったら、阪大も京大もA判定が出るようになった。だが本番がダメで、サクラは咲かなかった。

 結局、4年間浪人した。どこの予備校にも「牢名主」のような存在がいるものだが、服部氏はいつのまにか「主」の存在になっていた。4年間の浪人生活は、経験しないにこしたことはないが、「不思議と今になって、この時の苦労が僕の人生で生きている」と言う。

 今でも不思議なもので、困難になればなるほど、心は燃え体の芯からエネルギーが溢れてくると言う。

 苦しみと喜びは対極にありながら、その二つは服部氏にとって一つの輪の中に存在する運命共同体のようなものだ。

 浪人中は大阪中野図書館でよく勉強したが、たまたまマザー・テレサの写真集に出会った。写真集からはものすごいエネルギーが出ていた。どうしてこんなことが出来るのだろうと感銘を受けた。「僕もいつかこんな風になりたいと思った。それ以後、図書館に行くたびに、まずそれを見て勉強した。路傍に打ち捨てられた貧しい人々と正面から向き合い、生命の尊厳を守ったマザー・テレサを今も尊敬している」と言う。

 だから服部氏は貧しくて、何とかして欲しい人がいると燃えてくる。

 ベトナムでも、金持ちはロシアに行って3万ドルとかの大金をはたいて、手術を受ける。

 「無償でも、それに負けないものを、結果として残したい」というのが服部氏の「赤ひげ魂」だ。

 日本で買ってきた機械を使えば、外国に行かなくてもベトナムで手術が可能だ。それでも難しい手術では、成功の可能性はフィフティー・フィフティーというのも少なくない。そうした手術で患者が助かった姿を見ると、「それだけで心は充足し喜びを感じる」と語る。

手術代肩代わりは1000人以上

 そもそも服部氏はボランティアするつもりはなかった。だが、たまたま学会でベトナム人医師と出会ってベトナムの惨状を知ったのが契機となった。10年前のベトナムというのは、数年前のミャンマーみたいなものだった。車もほとんどなくて、まず一ヶ月滞在した。しかし、日本で勤務していた病院からは「ボランティアするなら病院を辞めろ」と言われたから辞めた。ただ何千万といい収入を得ていたから、辞めるとなると勇気がいったのは事実だ。

 ベトナムでは重症の患者が多い。

 理由は貧しい患者が多く、症状が悪化してから病院にくるためだ。だから手術の割合は、日本より断然高かった。

 手術で一番多いのは白内障だ。ベトナム戦争のころには短かった平均寿命が延びていることが原因の一つかもしれないし、紫外線の影響も考えられる。

 同じように、患者が急増しているのが糖尿病網膜症だ。

 服部氏は当初、ベトナムには糖尿病の患者はほとんどいないと思っていた。ベトナム料理は生春巻きやフォーなど、野菜が豊富で高カロリー食ではないからだ。しかし、予想以上に食事の欧米化が進んでいた。

 あるデータでは、都市部の3人に1人が糖尿病だと言う。しかし糖尿病はベトナムではあまり知られていないため、治療が一向に進んでいない。そのため、失明してしまう患者が後を絶たない。

 医療は手術がすべてではない。診療で患者の病気を的確に診察し、不安を和らげる精神的なケアも必要だ。

 貧しい患者は手術費用を払えずに、治療を諦めて帰ってしまおうとする。遠い地方からハノイに来るだけでも、交通費や滞在費など大きな負担だ。手術ともなれば年収の2、3倍が必要になることもある。

 そういう人には、手術費用は何とかするから、とにかく手術を受けるよう進言した。

 服部氏が手術代をも肩代わりした患者は、1000人以上に上る。

 病気は待ってくれない。お金を作ってからでは、手遅れになるケースがほとんだ。ベトナムでは即断即決を鉄則にしてきた。

激痛のヘルニアかかえ

 結局、服部氏が手がけたベトナムでの手術数は1万件以上になる。ただ、ある時期から少なくなってきた。

 2002年から始まって5年ぐらい経った07年ぐらいがピークとなった。

 どんどんメスを渡していくというのが服部氏のやり方だった。

 とにかく、ベトナムの医療を前進させるためには先進技術の伝承が不可欠だった。そうした後輩が育ってきたことが大きく作用し、07年以降は手術回数は減ってきた。

 まだ日本でも少ないのだが、服部氏は網膜の手術を内視鏡を使ってやる。そうしたドクターをベトナムで20人ぐらい育てあげた。

 それで、そろそろミャンマーに行こうかなと思っていた時に、椎間板ヘルニアになった。一年半、すごく苦しんだ。腰も痛くて、とてもじゃないけどミャンマーどころの話ではなくなった。

 原因は仕事のやりすぎだ。日本みたいに、電動ベッドが動くとか、自分に合わせてアジャストできる椅子がベトナムであるわけではない。服部氏がベトナムに来た時、あるのはテーブルにただの木の椅子だけだった。

 結局、横になっても痛くて寝れない。それでも仕事があるし、何していても痛い。

 ヘルニアというのは普通、3ヶ月ぐらい入院して治る。でも入院している暇がなかった。

 「僕の場合は、フリーのスタイルだから、一ヶ月休んだら一ヶ月、収入はゼロだ。保険もなければ保障もない」という服部氏に残された道は、痛みを押してただ働き続けるしかなかった。

一緒に食べるからご飯は美味い

 もし日本で開業すれば、神業に近い特殊な技量を持つ服部氏の年収は1億円は下らない。いい家に住み、高級車に乗って、週末はゴルフといった生活が出来る。「でも、それでは僕の医師としての人生は続かない。やはり、心が燃えないからだ」ときっぱり語る。

 美味しいものをひとりで食べることが、どんなに寂しいものか。共感してくれる人がいない人生が、どれほど虚しいものか。

 誰かと一緒に食べるからご飯は美味しい。

 誰かと泣いたり笑ったりするから、人生はかけがえのないものになる。一緒に笑えば喜びは倍増するし、悲しみは半減する。

 ベトナムでのボランティア医療生活はストレスだらけだ。持病と化したヘルニアは、初期治療を怠ったためか、今なお痛む。

 「午前中はいいのだが、夕方になると痛み出す毎日だ」と言う。

 それでも服部氏は、困難であればあるほど、心は燃えてくる。

白衣を捨てた服部氏

 服部氏は日本でもベトナムでも、白衣を着て仕事はしない。診療をするときは、いつもYシャツ姿だ。「白衣が患者に与える威圧感みたいなものに抵抗を覚えるためだ」と言う。

 視点はいつも患者側にある。それは医者を目指した高校生の時の原点から派生したものだ。

 高校生の時、父親がガンになった。

 服部氏は16歳の時、死の床に伏している父親を侮辱した医師の心無い一言で、自分も医者になることを決意する。

 父親の見舞いに行ってナースステーションを通りかかった時、医師と看護師が話していたのを偶然、聞いてしまったのだ。

 「82号室のクランケ(患者)は文句ばかり言って本当にうるさいやつだ。どうせ、もうすぐ死ぬのに」

 服部氏は一瞬、耳を疑った。医師は病気を治して命をつなぎとめてくれる神様のような存在だと思っていた。しかし、その医師が父親をさげすんだ。確かに医師にとって父親は、多くの患者の一人にすぎないかもしれない。だが、服部氏にとってはかけがえのないただ一人の父親だ。その父親があろうことか、命を委ねている医師から侮辱された。

 服部氏は、こんな医師がはびこっていては世の中はよくならないと憤った。

 そして「だったら僕がいい医者になってやる。そして、病気で苦しんでいる人に報いたい」と心底思った。

 その医師は、反面教師ならぬ反面医師となった。

人のために生きろ

 父親は遺書をしたためていた。死の前日、朦朧とした意識の中で突然、ベッドから起き上がり、鉛筆でレポート用紙に書き残したものだった。

 その手紙には、次の4つの言葉で終わっていた。

 「お母ちゃんを大切にしろ。人に負けるな。努力しろ。人のために生きろ」

 父親は、勉強しろと言ったことは一度たりともなかった。いつも説いたのは、人の役に立つ生き方だった。

 「おやじから、社会に出るための基礎を学んだ」と服部氏は語る。

 服部氏は、今もその鉛筆書きのレポート用紙を大事にしまっている。

 ベトナムで立ち向かっていったのは病気だけではなかった。服部氏に立ちはだかったのは見えざる社会主義国の壁だった。

 服部氏の目標は、1人でも多くの患者を救うことにある。

 しかし、一人で医療は成立しない。スタッフ全員が、同じ目的に向かって力を合わせないといけない。ベトナムでの最初の関門は、現場スタッフたちの意識を変えることだった。

 しかし、何度教えても言っても、彼らの態度は変わらなかった。社会主義の国では、働いても働かなくても給料は同じ。だったら今までどおりでいいじゃないか、という考えが蔓延していた。彼らの態度は面倒くさいという雰囲気が漂っていた。

 服部氏を憂鬱にさせたのは、こうしたカルチャーギャップだった。

 日本で当たり前のことがベトナムで通用しない。逆に、ベトナムで当たり前のことが、服部氏には理解出来なかった。

 午後には2時間ほどの休憩をとるのがベトナムの習慣だった。12時になるとベトナム人スタッフは、仕事が長引いていても平気で休憩に入る。しかも昼寝付きだ。だから仕事が長引くと、とたんに機嫌が悪くなった。服部氏だけ1人、手術室に残されたこともあった。

 手術が残っていても午後4時になると、残っている手術をすべてキャンセルして帰ってしまう。

患者を自分の家族と思え

 しかし、服部氏には一つの信念があった。

 「患者を自分の家族と思え」というものだ。家族を思う心は、日本もベトナムも変わらない。

 「もし自分の親や子供が病気だったら、君たちは手術をキャンセルしたり、時間外だからといって追い返したりしないはずだ。患者にも大事な家族がいる。本人も人生をかけて病院に来ている。どの患者も必死だ。君たちは、多くの人の期待と願いを背負っていることを忘れるな」

 何度もベトナム人スタッフにそう言い聞かせた。すると、あれほど頑固だった彼らの意識が少しずつ変わり始めた。

 彼らのハートに火が付いたのだ。

 「白い巨塔」じゃないが、病院は魔窟でもある。

 ベトナムでも、患者から賄賂をとる者もいれば、露骨にそれを要求する医師も存在する。ひどいのは、袖の下を出さない患者の手術日をいつまでも延ばし続ける悪徳医師だ。

 それでも朗報なのは、服部氏のボランティア精神を受け継ぐベトナム人医師が1人、2人と出てきたことだ。

 「彼らは休みの日でも、地方都市でのボランティア手術に参加するようになったし、何より意欲的なのが希望だ」と語る。

ローカルベトナムとミャンマー

 服部氏に話を聞いた日は雨の日だった。

 手術を終えたばかりの服部氏は「今日の一歳の幼児は、手遅れで両眼とも失明だな」と、ぼそりと語った

 両眼とも網膜剥離していたと言う。服部氏の顔のくもりと、ハノイに覆いかぶさる暗雲が重なって見えた。

 「小さい子供の手術には、麻酔から教育しないといけない」と服部氏は言う。

 小児麻酔は特殊な技量を要する。

 それで、小児麻酔を担当するベトナム人医師を日本に呼び、研修を受けさせたことがある。

 だが、受け入れ先の病院では「眼科の先生だと思った。麻酔まで面倒見きれない」と断られた。

 それでも服部氏は「そんなこと言わずに」と改めて頼み込んだ。

 日本小児医療センターという日本で一番、小児治療では進んでいるところだった。

 最初は門前払いだったが、たまたま服部氏が麻酔科の部長と知り合いだったので、そのつてで、何とか研修を受けることができた。

 服部氏の仕事は、ただ自分の手術技量だけでなく、そういった政治的な力量も必要になっている。「その分だけやりがいがある」と尋ねると「いや、しんどいよ。毎日がストレスだらけだ」と答える。

 ヘルニアも完治しているわけではないが、それでも服部氏は、将来の展望としてベトナムの地方だけでなくミャンマーをも視野に入れている。

 「ハノイ、ホーチミンは大体、僕がいなくてもカバーできるようになったが、課題は地方だ」。地方をどうしていくか、機械であれ手術する医師の養成であれ課題が残っている。

 そして、ASEAN最後のフロンティアとされるミャンマーへの医療支援に乗り出す日を睨んでいる。

 「ミャンマーでまともな眼科医がいるのは、ヤンゴンとマンダレーとネピドーの3都市ぐらいだ」と。

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