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回顧録⑭

「慟哭の島」サイパン

日本経営者同友会会長 下地常雄

 沖縄でのラジオ沖縄の買収後、私はNOCモーターズを買収した。NOCというのは、自動車修理業務を生業(なりわい)としたニュー沖縄コンサルティングの略称だ。

 顧客は米軍基地関係が多かった。

 米軍車両の修理があったことからサイパンも訪問した。

 当時のサイパンでは遺骨収集が頻繁に行われていた。

 今でこそ、南国のビーチが売り物のレジャーランドだが、先の戦争では激戦地となり「慟哭の島」であった。

 米軍攻撃の的になったサイパンは、補給路を断たれ孤立した日本軍の墓場になったのだ。

 日本軍は勇戦敢闘したものの、産業力をベースにした戦闘車両などによる圧倒する米軍の攻撃の前に、守備隊は玉砕を余儀なくされた。

 兵士たちは国家守護の大義の前に「我身ヲ以テ太平洋ノ防波堤タラン」としてその若い命を太平洋の孤島で散らせていった。

 遺骨の中には、鉄兜を被り小銃を握り締めた骨もあったという。

 日露戦争で「木口小兵は死んでもラッパを離しませんでした」との逸話があるが、そうした武勇伝を髣髴させるものだ。

 また母親と子供、乳飲み子の3人の骨を見つけた遺骨収集団もあった。母親は頭を撃ち抜かれており、母親の死後、残された子供たちがどんな状況の中、亡くなっていったかと思うと、涙なしでは聴くことができなかった。

 当時の南洋諸島は日本の委任統治領で、サイパンには日本からの移住者も多かった。

 とりわけサイパンに進出した南洋興発は、サトウキビ栽培による製糖事業で成功を収め、沖縄からも多くの移民をサイパンに送り込んだ。その南洋興発は「北の満鉄、南の南興」とも呼ばれ、満州開発の満鉄と並び称されるほどだった。

 そうした興隆した時代から、一転して坂道を転げ落ちるような「サイパンの悲劇」は沖縄出身の私の腑臓をえぐった。

 ある時、日本から来た僧侶と一緒に遺骨収集したことがある。

 するとその僧侶が、海の方から子供の泣き声が聞こえると言い出した。

 私も気になって、海に向かった崖下の洞の中を覗くと、子供を抱いた大人の骨があったのには驚いた。

 すぐに僧侶にお経をあげてもらい、荼毘に付したが「慟哭の島」を身を以って体験することになった。

 激しかった戦いは終り、日本は瓦礫の中から立ち上がって祖国を立派に復興させ世界の経済大国の一国となった。

 しかし、その陰で今もなお、4311人とされる戦没者の半数以上が骨も拾われないまま放置されているのだ。そうした南国の島で眠る骨の1つでも拾い故郷に持って帰りたいと思いたったのだ。

 その折、遺骨収集作業を終えた後、私達は米軍のカマボコ兵舎に帰ったが、なんと収集された遺骨はその兵舎に近い弾薬庫に集められていた。それを見て私は胸が痛んだ。ここにおさめられている弾薬が日本の兵士や民間人を狙ったものであるはずはなかった。だが、その同じ米軍の銃弾や砲弾で彼らが死んでいったことを思うと、さすがにそこに遺骨を置くことに抵抗を感じた。

 「遺骨に鞭を打っている」ように思われた。

 そこで当時のラリゲレロ総統に頼み込み、遺骨をプレハブ簡易住宅に移させた。無論、プレハブ建設代金はこちらが負担した。それは日本のために戦い散っていった人達へのせめてもの手向けだった。

 ラリゲレロ氏は上院議長だった人物で、後にサイパン知事に就任していたが当時はまだ知事ではなく総統と呼ばれていた。

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