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回顧録⑭

「慟哭の島」サイパン

日本経営者同友会会長 下地常雄

 沖縄県政に大きな足跡を残した大田昌秀氏が6月12日、亡くなった。奇しくも同日が92歳の誕生日だった。

 沖縄県知事や参議院議員として米軍基地問題解決のため尽力してきた大田氏の死去を地元紙は号外を出して報じた。

繰り返してはならない戦争

 大田氏は知事時代、時の橋本龍太郎首相が「僕らのいるうちに解決しないと、(基地問題は解決)できないよ」と言ったことを受け、梶山静六官房長官を交え、米軍沖縄基地の整理、縮小につき協議した。その会談では「橋本首相は上着を脱ぎネクタイを外し、『ざっくばらんに話しましょう』と気遣ってくれ、押し付けがましいことは一切、言わなかった」と大田知事は感謝したが、しかし橋本、梶山両氏の「解決」とは「沖縄が基地を引き受けること」であった。

 結局、大田氏は「戦争につながる基地は絶対に引き受けない」との立場を変えることはなかった。

 戦争を絶対に繰り返してはならないとの強い思いは大田知事の戦争体験が原点にあった。

 軍国少年だった大田氏は、戦争末期の沖縄戦で学徒動員されて師範鉄血勤皇隊に入隊した。

 伝令の任務を受け、仕事で移動途中に米軍機に攻撃された。彼は近くの防空壕に逃げ込んだが、中にいた味方兵士から銃を向けられ「誰がここに入れといったんだ。出て失せろ」と怒鳴られた。

 国民を守るはずの兵士が壕から住民を追い出し、自分達が占領し、住民の食料も奪った。大田氏は、戦場では、軍隊は住民を守らないどころか死地にも追いやる非情さを知った。毎日がつらく、早く砲弾に当たって死ねたらいいと思ったりしたが生き延びた。

 若い命がなぜ無残に理不尽に失われなければいけないのかを考え「二度と戦争をさせない、沖縄を戦場にさせない」とそう誓った。戦後、今日まで沖縄戦の研究を続けた大田氏の原点だった。

 その信念が、たとえ国を相手にしても果敢に立ち向かう「闘う知事」へと押し上げたのだ。

ワシントン・タイムズ紙会長の涙

 アルバート・ウェデマイヤー米陸軍大将は「第二次大戦に勝者なし」と回想したが、戦争は人の一生をめちゃくちゃにする。

 大田氏が知事時代に、激戦地だった糸満市摩文仁(まぶに)に建立した「平和の礎(いしじ)」には、敵として戦った米兵、日本軍として戦った韓国兵、民間人を含めて、24万人以上に及ぶ全ての犠牲者の名前を刻んだ。

 私がワシントン・タイムズ紙のトーマス・マクデビッド会長を沖縄に招待した際に、大田氏の戦争の犠牲者に敵も味方もないという大田氏の精神を伝えると、マクデビット会長は予定を変更して「平和の礎」を訪問した。

 平和の礎を前にマクデビット会長の目が潤んでいたことを昨日のように思い出す。大田氏の「愛と許容の精神」はマクデビット会長の魂をもゆすぶったのだ。

 南北戦争の犠牲者を祀ったアーリントン国立墓地でも、北軍だけでなく敗北を喫した南軍の犠牲者らを同時に祀っているが、米国のキリスト教の博愛主義によるものではないかと思うが、「平和の礎」は沖縄の風土、ユイマール精神に根ざしている。「死者に罪なし。死ねば仏様」とする日本人の死生観は、敵の墓を暴いて死者の骨にまで鞭する中国精神とは大違いだ。

防空壕のピアノ

 沖縄戦に関して「沖縄の将来を背負って立つはずの十代の生徒が人生のつぼみのまま犠牲になったのが一番悔しい」とよく話していた。沖縄戦では生徒と教師1987人が動員され、1018人が亡くなっている。

 大田氏が戦時中の思い出の中で、「防空壕には学校から運ばれたピアノがあった。空襲の合間に友人が弾いてくれた。人間を取り戻せる時間だった」と記している。爆風にさらされた沖縄に吹いた一陣の春風のようで、私自身、これを読んで救われた思いがしたものだ。

「回顧録を書け!」

 私に回顧録を書けと言ってくれたのも大田知事だった。「あんたのような奇想天外な人生を送った人物は他にはいないよ」と会うたびごとに言っていた。

 大田氏の訃報を受け、すぐに沖縄に飛んだ。その夜、通夜に参列し棺も親族と共に担がせてもらった。通夜では東門元副知事と隣り合わせになった。

 東門氏は「どういうご関係ですか」と訊いてきた。

 「下地といいます。大変、お世話になった先生ですから」と答えると「常雄さん?

 私、会ったことがあるでしょう。大田先生は会うたびに、貴方のことばっかり話していました。ああいう人はいない。表に出し、自伝も書かさないといけない」と言っていたと言う。

困難時に分かる真の友人

 思い起こせばドナルド・レーガン大統領の主席補佐官だったフレデリック・ライアン氏を連れて沖縄に入った時、迎えてくれたのが大田知事だった。

 そのライアン氏もABC放送のCEO(最高経営責任者)兼発行人を経て、今はワシントン・ポスト紙の会長になっている。大田氏は初対面の時に私に対し「こいつ何者か?」と思われたに違いない。

 しかし、お付き合いを始めて以後、私がヤオハンで破綻した時もそれまでと変わらず励ましてくれたのが大田氏だった。その当時は、財界や政界からも中傷された。ヤオハンがつぶれる前までは、沖縄県知事始め政界も財界も陳情に列を成すほど来ていた。しかし、ヤオハンが危ないとなると、潮を引いたように見事にぷっつりと途絶えた。そして、人一人誰も来なくなった。それどころか、「ほら吹き下地」だの、「レーガンと会った写真は合成だ」のとさんざん陰口をたたかれた。宝くじに当たると途端、親戚が増えるという話を反転させたような話だ。

 その時、つくづく思ったものだ。ふるさとは苦しい時にこそ、がんばれよと励ましてくれるものだろう。それがふるさとのいいところだと思う。それが全くの予想外の結果だった。裏切られたような気になって、二度と沖縄の土は踏まないと決心した。結局、ヤオハン事件以後10年間、沖縄に出向くことはなかった。

 たまたま10数年ほど前、還暦を迎え、中学生の同級生が集まる機会があった。それには行けなかったものの宮古島に行く契機になった。同級生が10人ぐらいが集まって、その時の真情をぶつけた。

 すると同級生たちは、「俺たちが一回でもそういうことをしたか。電話しようにも、電話番号すら分からなかった」といって、みんなが励ましてくれた。

 ジーンとくるものがあって、反省した。あの時、宮古島に帰ってみんなと直に会っていれば良かったのに、返って不義理をしたのは私の方だった。みんなに悪いことをしたと心底、思った。

 故郷は誰にとっても、犯すべからざる聖地だ。その聖地が聖地として残った。大田氏も宮古の旧友同様、変わらぬ態度で支えてくれた1人だった。

 困難の時こそ、真の友人かどうかが分かる。順風満帆の時の友人より、暴風雨に遭遇した時の友人こそが本当の友人だ。政治家は、力ある人物を利用しようとは思うが、金と力を失った途端、見向きもしない。その点、大田氏は強い信念を持った信義に篤い人物だった。

「沖縄を戦場にさせない」

 普通、知事だけでなく国会議員もやった人物なら現役引退後、悠々自適の生活に入るものだろう。沖縄の風土は美しいし、酒も美味い。

 だが、大田氏は隠居生活を拒否し、那覇市に事務所を開き、終生、沖縄と平和のために活動した。個人で資金も負担し、身体もきつかっただろうが、「二度と戦争をさせない、沖縄を戦場にさせない」という大田氏の祈りがそうさせたのだ。

 信念に基づき使命を全うした見事な人生を送った大田氏に、心より敬意を表しご冥福を祈りたい。合掌。

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