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実るほど頭を垂れる稲穂かな

日本経営者同友会会長 下地常雄

 今までいろんな人物に会ったが、心に残る人というと実力があり、かつ謙虚な人が多い。

 大体、トップに立つ人物というのは基本的に謙虚だ。だから難局に遭遇しても、自然と周囲からサポートを受けたり協力を得たりする。

ベランメー調の本田宗一郎氏

 政治家で謙虚な人というと、山崎拓氏や三塚博氏だ。

 小沢一郎氏も結構、懐が深い人だ。権力欲はすさまじいが、名誉欲は余りないように思う。

 財界で今まで感銘を受けた人物というと、本田技研の本田宗一郎氏や東急の五島昇氏がいる。

 本田氏には日本経営者同友会の世話人をやっていただいた関係もあり、何度か同友会主催の講演会で話をしてもらった。

 話し方はベランメー調で、言っていることは至って単純。ストンと腑臓に落ちることが多かった。講演会では立ち見が出るほど人が一杯集まった。

 本田氏の小学生時代の話は興味を引くものであった。

 本田氏は通信簿を親に見せ、ハンコをもらう必要があったが、とても見せられる成績ではなかった。それで、自分で偽造ハンコを作り乗り切ったことがある。

 瞬く間にこの話はクラスメイトの耳に入り、次の学期末には悪ガキ達の偽造印を作った。だが、そこはまだ小学生。全て鏡文字となっていたため簡単に発覚する羽目に。しかし、「本田」の文字だけは左右対称で、鏡文字でも同じ文字だったおかげで、当人だけは偽造が発覚しなかった。

 ハンコの話は続く。会社の印鑑は藤沢武夫氏に預け、経営も全て任せていた。本田氏は社印も実印も一度も見たことがなかった。後に本田氏は述懐し、「技術開発だけに集中できた」「藤沢がいなかったら会社はとっくのとうに潰れていた」と語っている。

 藤沢氏も「本田がいなければここまで会社は大きくならなかった」と述べているほど良好なパートナー関係だった。また両者は「会社は個人の持ち物ではない」という考えをもっており、身内の入社を極度に嫌い、断じて縁故採用を受けつけなかった。後、本田氏は社名に個人の姓を付したことに後悔していたほどだ。

失敗が人を成長させる

 本田技研工業を浜松市に設立したのは、戦後3年目の1948年のことだった。スタート時の従業員はわずか20人だった。

 本田語録の中に「失敗が人間を成長させると、私は考えている。失敗のない人なんて、本当に気の毒に思う」というのがある。また「社長なんて偉くも何ともない。課長、部長、包丁、盲腸と同じだ。要するに命令系統をはっきりさせる記号に過ぎない」というのもある。さすがに形式に捕われず、物事の本質をずばり指摘するのは本田氏の真骨頂だ。

 現在の静岡県浜松市にあった鍛冶屋の長男として生まれた本田氏は、高等小学校卒業後に丁稚奉公として東京・湯島の自動車修理工場に入る。6年後の1928年にのれん分けの形で浜松市に支店を設立して独立。事業は順調に拡大するものの、学問的な壁に突き当たり、37年に現在の静岡大学工学部機械科の聴講生となって3年間、金属工学の基礎勉強をじっくりこなしている。ここらあたりに大器の芽が感じ取れる。

東急の五島昇氏

 なおゴルフ好きで粋な五島氏も、ガンを患って手術のあとは、今まで通りにゴルフ三昧というわけにもいかなかった。それでも時おり、自分の手で作り上げた茅ヶ崎の「スリーハンドレッドクラブ」を訪ねてはハーフをこなし、後はテラスや暖炉のあたりのロッキングチェアで毛布に包まり、うつらうつら午睡をとるという静かな晩年だった。

 その五島語録で忘れがたい言葉がある。

 「金儲けは易しいが、経営とは違う。世のためになって利益を上げるのが経営。だから経営は難しい」

 「企業は愛されるだけでは駄目だ。尊敬される怖さを持て」

 経営者同友会の指針ともなるような五島哲学だ。


【プロフィール】

下地常雄 しもじ つねお

 沖縄出身で歴代米大統領に最も接近した国際人。1944年沖縄宮古島生まれ。77年に日本経営者同友会設立。93年ASEAN協会代表理事に就任。レーガン大統領からオバマ大統領までの米国歴代大統領やブータン王国首相、北マリアナ諸島サイパン知事やテニアン市長などとも親交が深い沖縄出身の国際人。テニアン経営顧問、レーガン大統領記念館の国際委員も務める。また、2009年モンゴル政府から友好勲章(ナイラムダルメダル)を受章。東南アジア諸国の首脳とも幅広い人脈を持ち活躍している。

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