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東京の大雪に児玉誉士夫氏の通夜を思う

日本経営者同友会会長 下地常雄

 東京はこの冬、48年ぶり最低気温の氷点下4度を観測するなど大雪に二度、見舞われた。銀世界に豹変した東京を見て、思い出すことがあった。それは同じ大雪の中で営まれた児玉誉士夫氏の通夜だ。児玉氏は戦中、陸軍特務機関に身をおき、戦後は河野一郎氏から田中角栄氏まで政界のキーマンを操った。

 児玉氏は福島県の安達太良山の麓にある本宮生まれで、そこは会津ほど豪雪ではないが冬にはそれなりの雪が降る地域だ。

 その日は故郷を思わせる雪が降り、東京は雪原に変わっていた。

 1984年1月17日に72歳で亡くなった児玉氏の通夜は等々力の自宅で執り行われた。自宅前では児玉氏を慕う若者たちが道の両脇に整然と並び、弔問客を迎えていた。

笹川氏の友情

 不思議なことに親交ある政治家の姿は一人としていなかったが、源田実氏の姿だけは印象に残った。笹川良一氏はこの時、棺の中の児玉を覗き込み、周囲に響き渡る声でこう言い放った。

 「見たまえ、児玉さん。君の潔白は見事に証明された。あたり一面、真っ白な雪だ」  笹川氏を芝居がかっていると言ってしまえば、それまでだが、ロッキード事件で検察の手が真綿で首を絞めるように迫る中、忸怩たる思いで冥界へと旅立った児玉氏の心情を思えば、あの世で児玉氏は笹川氏の友情を有難く思ったであろうことは想像に難くない。何よりやるせない思いの親族に対する大いなる励ましになった。

 私も光栄にも参列者として、武道大学理事の大平光洋先生と一緒にこの現場に立ち会った1人だ。応接間に通された私は、源田氏や右翼の大物が陣取る中、部屋の片隅で立ったまま見守っていた。その時、棺の中の児玉氏の胸の上に、短刀が置かれていたのを今も鮮明に覚えている。

岸首相を全力で支える

 児玉氏は日本の一時代を陰でリードしたスケールの大きなフィクサーであった。

 児玉氏は岸信介首相や河野一郎氏などの後ろ盾として多大な影響力をふるい、現在の自民党の礎を作った。

 1959年、日米安保条約改定のため、党内協力が必要となった岸信介首相を児玉氏は全力で支えている。その当時、児玉氏が支援していた河野一郎氏や大野伴睦氏は協力を拒むばかりか、岸首相を追い詰め、政権を投げ出させようとしていたにも拘らずだ。

 児玉氏の行動は権力掌握という政治的野望からではなく、国家の安泰、安寧を第一義とする信念に基づくものだったように思う。安保改定こそが日本の自主防衛がかかった国家の大事であった。

 こうした覚悟は、神風特別攻撃隊の創始者・大西瀧治郎氏の割腹自殺に若き日の児玉氏が駆けつけた折に腹を据えたように思えてならない。

大西瀧二郎の割腹自殺

 大西氏は児玉氏に「君がくれた刀がなまくらだから、死に切れなかった」と冗談を言い、一緒に死のうとした児玉氏に「若い人は生きなきゃならん。生きて新しい国を作るんだ」と諭した。それが大西氏の児玉氏に対する遺言状だった。

 大西は特攻隊を送り出し、多くの若者を死なせた全責任を取り割腹自決したが、生前語っていた「死ぬ時はできるだけ苦しんで死ぬ」との言葉どおり、介錯無しの割腹自殺を遂げ、15時間あまり苦しんで死亡した。

 児玉氏は戦後、鳩山一郎が自由党を作る時、政治資金として1000万円をポンと出したり、政治フィクサーとして政界の裏役を務めるが、政商といった次元の人物でなかったことだけは確かだ。

 児玉氏の弔いの日、人は黒装束で臨んだが、天は白衣で臨んだ。それを読み取った笹川良一氏の眼力の鋭さには頭が下がるが、何より児玉氏と心情を一にするものがあったからこそできたことだ。


【プロフィール】

下地常雄 しもじ つねお

 沖縄出身で歴代米大統領に最も接近した国際人。1944年沖縄宮古島生まれ。77年に日本経営者同友会設立。93年ASEAN協会代表理事に就任。レーガン大統領からオバマ大統領までの米国歴代大統領やブータン王国首相、北マリアナ諸島サイパン知事やテニアン市長などとも親交が深い沖縄出身の国際人。テニアン経営顧問、レーガン大統領記念館の国際委員も務める。また、2009年モンゴル政府から友好勲章(ナイラムダルメダル)を受章。東南アジア諸国の首脳とも幅広い人脈を持ち活躍している。

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