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野中広務氏死去を悼む

社会的弱者忘れない武闘派

 戦前、野中氏は軍国青年だった。終戦は高知市の第155師団歩兵第452連隊で迎えた。この時、野中氏は坂本龍馬像の前で自決を考えたが、上官だった将校に「死ぬ勇気があれば、これから日本の国を建て直す勇気に変えろ」と諭されている。

 野中氏は、先の大戦の凄惨な歴史が繰り返されることのないよう、いつも心を砕いていた。

 野中氏は自身の政治原点を聞かれた時、「京都の体験が血肉になっている」と話している。旧園部町議から始まり、同町長、京都府議、副知事へと地方政治家のステップを一歩づつ、進んできた。特に、野党として革新系の蜷川虎三知事と全面対決した府議時代の教訓は小さくない。

 永田町でも、獅子奮迅の活躍をしたのは自民党が野党に転落した時で、党内外で頭角をあらわした。

 自民党は2016年6月、5年ほど離党していた野中広務氏の復党を決めた。

 野中氏は民主党政権下の11年に、全国土地改良事業団体連合会(全土連)会長を務めていたが、土地改良関連予算が大幅に減らされる見通しになったことから「国から補助金をもらっている団体の会長は政党色がない方がいい」などとして離党した経緯がある。

 野中氏の硬骨漢ぶりは、筋金入りだ。

 京都府庁では昔、府職員に対する福利厚生に力を入れており、課長以上の職員の自宅の電話代や部長以上の職員の昼食代まで府が肩代わりしていた。副知事就任後にその実態を知った野中は「こんなことに税金を使ってどうするんだ」と一喝、それらの制度を廃止させている。

 野中氏の自民復党には、二階俊博氏が動いていた。

 自民党には遠謀があった。

 野中氏といえば、安倍政権に反旗を翻す翁長雄志・沖縄県知事が師と仰ぐ政治家だ。その野中氏を自民に復党させることで、オール沖縄のトップに立つ翁長知事の懐柔役にというものだった。

 そのお役目は未完のまま、野中氏は泉下に下ったが、政治的な戦闘性の高さから「武闘派」と評された野中氏は、一方で社会的弱者へ暖かいまなざしを忘れることはなかったに偏るのは猿知恵でしかない。さらに、自分の国の文化を教え込まないのは言語道断だ。

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